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90model
 1975年9月7日、僕は阿部家の次男として東京に生まれた。典史という名前の確かな由来は聞いていないが、知人にいい字画を決めてもらい、音で決めていったそうだ。「典史」は、音読みすれば「てんし」とも読める。
 父親がオートレーサーということもあって、バイクは僕にとって身近なおもちゃだった。初めてバイクに乗ったのは5歳。その頃のことはぼんやりとしているけど、兄とポケバイに乗って、楽しく遊んでいたことは覚えている。ポケバイは知人が作ってくれた少し大きめなもので、スピードも出る。僕は兄との競り合いになると燃えるみたいで、少しぐらいぶつかってでも前に出ようとしていた。
 体が大きくなるにつれてバイクも大きいものに変え、しばらくはモトクロスに。兄も一緒に走っていたけど、ある時兄がモトクロスで骨折して何ヶ月か乗らない時期があり、治ってからも5回ぐらい乗っただけで、とうとうバイクを降りてしまった。
 僕は、兄がバイクをやめてどこかほっとしていた。自分では「危ないことをしている」という意識があって、兄のことがずっと心配だったからだ。でも自分に関しては、「オレは大丈夫だけど」と思っていた。
 11歳から、カートコースでミニバイクに乗り始めた。マシンは当時出たばかりのYSR50。ちょうどミニバイクレースが盛んになり始めていた。父としては僕にロードレーサーになってもらいたい気持ちがあったようで、いつもロードレースの写真を見ていたし、ケニー・ロバーツ(シニア)の話を聞かされたりしていたから、モトクロスからミニバイクにスイッチしたのも僕にとっては自然なことだった。僕も子供ながらふざけて「世界チャンピオンになる」なんて言い始めた頃だ。
 父の仕事が忙しく、カートコースにはしょっちゅう連れて行ってもらえたわけではなく、ミニバイクは2週間に1回ぐらいのペースでしか乗れなかった。家の近くの河川敷ですぐに乗れるモトクロスと交互に乗っているような状態だ。それでも新東京サーキットや茂原、榛名などで走って、結構速い方だった。
 13歳になり、初めてサーキット秋が瀬に行った時のことはよく覚えている。その頃、(加藤)大治郎や(亀谷)長純、それに(武田)雄一と雄一のお兄さんたちが秋が瀬を走りまくっていて、とにかくズバ抜けて速かった。走りを見ていてもダントツで、「すげぇガキどもがいるなぁ!」とビックリした。
 他のサーキットではいつも一番で、僕と同じ速さで走れる人はそうはいなかった。なのに、大治郎たちにはまったく歯が立たない。ものすごいショックを受けた。すぐにでもプロレーサーになれると思っていたのに、「オレなんか、とてもじゃないけどプロにはなれない」と落ち込んだ。
 ところが大治郎のお父さんが僕の父のことを知っていて、話をしていたようだ。僕の父が「仕事柄、なかなか練習に連れて来ることができなくて」と言うと、大治郎のお父さんは「それならうちに泊まりに来ればいい」という話になった。しかも「今週末に耐久レースがあるんだけど、雄一のお兄さんがペアライダーを探している。出てみませんか?」と、話はとんとん拍子に進んだ。
 それ以降はもう毎週のように大治郎の家に泊まりに行くようになった。みんなはホントに小さい頃から一緒に過ごしていたから、新しい子が入ってくることにも慣れていたみたいだ。でも僕はずっと一人で走ってきたし、人と接するのが苦手だったから、打ち解けられずにいた。何よりも走りで負けているのがすごく悔しくて、「練習しまくって、まずは抜いてやろう。仲良くするのは、自分のすごさを見せつけてからだ!」と思い、それまでは打ち解けるつもりもなかった。
 3ヶ月ほど経つと僕も勝てるようになり、気持ちに余裕が出てきたこともあって、みんなとはすっかり仲良くなっていた。とにかくみんなで走るのが楽しくて、サーキットの営業時間が終わってからで模擬レースをしたりして走りまくっていた。
 僕もどんどん速くなっていって、始めはなかなか勝てず悔しい思いばかりしていた本番のレースでもついに勝てるようになった。初めて勝ってトロフィをもらった時はうれしかったけど、そのうちトロフィだらけになってしまい、「もうトロフィはいいや〜。今度はカップがいいなぁ」なんて思っていた。
 あの時、大治郎たちと出会わなければ、今の僕はなかったと思う。そう考えるととても不思議な巡り合わせだ。この頃から、僕の頭の中には世界グランプリのことしかなかった。それはまだ遠い遠い世界で、ぼんやりとした憧れだったけれど、とにかく「世界一になりたい」という思いだけは強く持っていた。

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