〜90 91 92 93 94 95 96 97 99 99 00 01 02 03
Back
94model
 ブルーフォックスのライダーとなった僕は、テストの時に初めてRC45に乗った。始めは不安もあったけど、同じホンダの先輩・武石伸也さんが乗るファクトリー仕様より、キットパーツ車の僕の方がいいタイムで走れていたので、「スーパーバイクでも500でも関係なく走れるんだ!」と少し安心した。周りの人たちも「おっ、いけるじゃない」と見てくれたようだ。
 ところがテストをこなしていくうちに頭打ち状態に。タイムも伸び悩んでしまい、トップ争いどころではなく、「これはヤバイぞ」と思い始めた。ファクトリー仕様ではない分、どうしてもつらい部分があったからだ。もともとRC45は市販車で、しかもキットパーツ車では、自分のライディングに合わせたセットアップに限りがあったからだ。
 前年度の全日本500ccクラスチャンピオンということで、周りからの注目度の高さと、自分の置かれている状況とのギャップがとても激しくて、つらかった。自分のせいともマシンのせいとも言っていられない厳しいシチュエーションだった。
 いざシーズンが開幕してみても、全然トップ争いはできない。それどころか開幕戦鈴鹿は8位、第2戦美祢は7位。テストも悪く、レースもダメで、「これでもうレース人生は終わりだな」と思った。一気に潮が引くように注目もされなくなって、「成績が悪いと、本当にこういうことになるんだ」と初めて分かり、すごく不安にもなった。
 4月の日本GPにワイルドカードとして出られることは決まっていた。全日本がさんざんな状況の中、NSR500、しかもファクトリーマシンでレースに出られる唯一のチャンスだ。「ここでいい走りをして、速く走れるところを見せつけないとヤバい! じゃなきゃ、本当に今年でレース人生は終わっちゃう」と思っていた。
 今になって振り返ってみても、追い込まれて当然の状況だったと思う。積み重ねた実績も若いライダーが全日本チャンピオンになったと言っても、「まぐれだ」「勢いだ」と言われるだけで、薄っぺらいものだ。実際、開幕戦と第2戦を終えた頃には、前年のチャンピオンの話題なんて誰も言わなくなって、完全に消えていた。
 逆に、日本GPでいい走りができれば、世界中にアピールできる。もしかしたら海外のどこかのチームに引っ張ってもらえるかもしれない。そんな期待と、「テレビでしか見たことのない連中と走ってるよ!」とで、ドキドキと興奮しながら、日本GPのレースウィークが始まった。
 予選初日はドライ。事前にテストで1回走行していたが、その時はトップにもなれる9秒台が出せていて、「阿部は結構いけるんじゃないか」と言われていた。ところが実際には緊張してガチガチになってしまい、テストの時のような走りはできず、10番手。力が出せずにガックリした。
 2日目は雨で、ずっとトップタイム。最後の最後にジョン・コシンスキーとダグ・チャンドラーに更新され、この日の順位は3番手になった。この時、タイミングモニターの最上位にずっと僕の名前が表示されていて、いろいろなチーム関係者の間で「誰だ? こいつは」と注目されていたらしい。でも、しょせんは雨の中での出来事だから、僕としては明日の決勝のことの方が心配で、喜んではいられなかった。
 そうしたら予選後、「ウェイン・レイニーが『アベと話したい』と言っている」と聞いて、もうビックリ。憧れのレイニーさんが声をかけてくれただけでもうれしくて、でも「何だろう」と思いつつ行ってみた。「Nice to meet you」なんてあいさつしていると、「今日は良い走りをしていたな」とレイニーさん。そして、「もし明日がドライなら、カダローラとシュワンツとドゥーハンが前に出るはずだ。キミならきっと着いていけるよ」と、とんでもないことを言い始めた。「いやいや無理ですよ、着いていけないですよ」と僕が言うと、「大丈夫、必ず着いていける。ただ、序盤に焦ったら転んでしまう。5周は様子を見るんだ。その後は走りたいように走る。いいね、5周はガマンするんだ」とレイニーさんは言った。僕は目の前にレイニーさんがいるだけでドキドキしているのに、「ちょっと買いかぶりすぎじゃないかなあ」と思いつつ、一応「ありがとうございます、期待に応えられるように頑張ります」とあいさつはした。心の中では「無理だよ、無理に決まってるよ」と思いながら、「でもやるしかないんだよな」と自分に言い聞かせた。
 決勝レースのスタートはまずまず。たまたま序盤にドゥーハンの後ろに着くことができた。でもレイニーさんに言われたように、5周は自分を抑えてペースをつかんで、そこからはシュワンツ、ドゥーハンと僕の3人でのバトルとなった。何度かトップの座を奪う抜きつ抜かれつのバトルをしながら、「見てくれ! みんな見てくれ! オレは速く走れるんだ! 絶対に負けないんだ!」という気持ちでいっぱいだった。
 ラスト4周目ぐらいからシュワンツが逃げ出して、僕の前にいるドゥーハンのペースが落ちてきた。「早くドゥーハンを抜いてシュワンツを捕まえないと」と焦っていたけど、コーナーで抜いてストレートで抜き返される。シケインでドゥーハンをパスして2位に上がった時には、残り3周になっていた。
 でもまたホームストレートで抜かれるかもしれない。だから1コーナーのブレーキングを目一杯遅らせて、思いっ切り深く突っ込んでいった。そうしたらそこに周回遅れのマシンが。「当たる!」と思い、自分から転んでクラッシュアウトした。
 とにかくもう、結果が残せなかったことがすっごく悔しかった。ピットではチームスタッフやホンダの人たちが「すごい走りだったね」「良くやったよ」と言ってくれたけど、「これでオレのレース人生は終わりだ」と、悔し涙が止まらなかった。
 レース後、レイニーさんに再び呼ばれたので行ってみると、「ケガはないか? 最高だったよ」と言ってくれた。そして「ところで今年の契約はどうなっているんだ?」と聞かれた。この年、ブルーフォックスとの間では、お互いが合意できる内容の契約に達していなかったので、実際には契約は結んでいなかった。そんな話をレイニーさんに伝えると、「来年から間違いなくウチのチームで、GP250で走ってほしい」と言われた。世界GPライダーになるための、今回の日本GPワイルドカード参戦。本当に目標が達成できて、しかもレイニーさんと組めるなんて。あまりにも信じられなくて、状況がきちんと把握できないほどだった。
 レイニーさんには、95年はケニー・ロバーツ・ジュニアと僕を組ませて、GP250から参戦しようという考えがあったようだ。ジュニアやお父さん(ケニー・ロバーツ)とは、アメリカでダートラ修行をしていた頃からの知り合いだ。
 それにしても、それまでは雲の上のような存在だった世界GPが、走ってみたらトップ争いができて、しかもたった1回のレースで周りの目がガラリと変わった。「こんなにやりがいのあるレースなんだ!」と、1日でも早く世界GPに行きたいと思った。でも、その時僕に用意されているレギュラーの戦いの舞台は、全日本スーパーバイクだ。続けて参戦していたが、ブルーフォックスではやはりいい成績が残せずにいた。
 そんな時に、「チームロバーツでGP500を走っていたダリル・ビーティがケガをして何戦か欠場する。代役としてエントリーしてくれないか」というオファーが来た。チームレイニーのライダーとして、チームロバーツにレンタルされるという形だ。「来年からGP250で頑張ろう」と思っていた僕にとっては、いきなり500で海外のGPに出られる大きなチャンスだった。これは逃したくない。ブルーフォックスにはお世話になっていたけど、契約を結んでいたわけではなかったし、何よりも僕にとって人生がかかっていた。申し訳ない気持ちもあったが、GPへの道を選ぶことにした。
 急きょ出ることになったのは、ドニントンパークでのイギリスGP。その後のチェコGPと、アメリカGPにも出ることになっていた。
 イギリスGPは、初めて行くヨーロッパ、初めてのチーム、初めてのヤマハYZR500と、初めて尽くしでもうパニック。知らないことだらけで、いざサーキットに着いても「わぁ、これが本当のグランプリなんだ。外人ばっかりなんだなあ」と、本当に何も分からない状態だった。
 日本人エンジニアの方たちとも初対面。みんな不安と期待の入り交じった表情だった。僕のような形でGPデビューすることは本当に珍しいことで、僕の歩くところにはプレスのかたまりが着いてきていた。プレスの注目度は本当にすごくて、みんなが僕のピットに来てしまうので、ピットアウトする時もピットロードが見えないほどだった。
 僕はもう完全にパニックで、「一発目からタイムを出さないと!」と焦りまくっていた。ところが走り出しての1周目、NSRとYZRのあまりの違いにビックリし、しかも「何だよこのコースは」と思うぐらいアップダウンが激しい。さらにパニックになってしまった。
 そしてエンジンをナラシしている最中の3周目、最終コーナーでハイサイドで転倒。頭を打って右手の甲を骨折してしまった。医務室にはヤマハのスタッフが駆けつけてくれたけど、「アレ? オレはホンダに乗ってるのに、何でヤマハの人が来てるんだろう」と思うほど、わけが分からなくなっていた。
 すぐに病院に行って手術。2日間入院して日曜日の朝に退院し、決勝レースを観戦しにドニントンに行った。何だか嵐が過ぎ去った後のような静けさで、「いったい何だったんだろう……?」と自分でも変な感じだった。「やっぱり自分のペースで行かないとダメなんだな」ということがよく分かった。でも、今になって考えても、あの状況じゃパニックにもなるさ、と思う。鈴鹿のレースがあったから、周りの期待も大きくて、自分にもすごくプレッシャーをかけてしまっていた。
 病院にはケニーさんとレイニーさんがお見舞いに来てくれた。「もうダメだろうな」と思っていたらいきなり「早くよくなって、2週間後のチェコGPには出てほしい」と言ってもらえた。「後はもう落ち着いて行こう」と気を取り直した。
 チェコでは、「自分のペースで走ろう。限界走行だけじゃ無理だ」と、徐々にペースアップしていった。そしてGP3回目にして初めて完走し、チェッカーフラッグを受けた。チームロバーツのみんなも祝福してくれて、僕もうれし泣きだ。「僕はGPでは完走できないんじゃないか」という不安さえあったのに、6位なら決して悪くない。一安心した。
 1週あけて、アメリカGPはラグナセカで行われた。91年にアメリカでダートラ修行をしている時、1度GPを見に来たことがある。「将来は絶対にGPライダーとしてここに来るんだ!」と思っていたコースに、今自分がいる。しかもチームロバーツという一流チームで。「本当に来られたんだな」という達成感があって、「頑張ろう!」という気持ちでいっぱいだった。
 決勝はダグ・チャンドラーとの抜きつ抜かれつのバトルになり、6位。僕としては不本意だったけど、周りからの評価は良かった。
 予定では、チームロバーツからのGP参戦はこのアメリカGPまでで、もう出られない。でも、やれるだけのことはやった。あとはレイニーさんからの来季に関する話を待つだけだった。
 シーズンが終わり、レイニーさんからFAXが来た時は、当然GP250の話かな、と思った。ところがその内容は、「チームレイニーからのレンタルという形で、来年もチームロバーツから500で走ってくれ」というもの。チェコ、アメリカの走りを見て、ケニーさん側も「これならいける」と思ってくれたのと、レイニーさんも「チームレイニーは95年は500を走らせる予定がない。おまえは500の方が合っているから、チームロバーツで走ってこい」ということだった。
 僕としてはまたまたビックリ。ものすごく運があって、何もかもがいい結果になった。来年からいきなりトップカテゴリーで、ものすごくレベルが高い世界GP500に参戦できるなんて。
 ただ、これは僕にとってようやく立つことができたスタートラインだ。経験不足は間違いないので、コースを覚えるぐらいのつもりで、95年は戦っていこうと思った。
 こうして僕のヤマハでのレース人生が始まった。

helmet94
Copyright-rogo
Copyright-rogo Copyright(C) 2003 norickabe.com All rights reserved.